
星条旗を宇宙へ 【第4章】ポスト・アポロとスペースシャトルと冷戦の雪解け(1973年〜1981年)
1. 空の実験室 スカイラブ計画 —— 廃品利用が生んだ「家」
アポロ計画が予定より早く打ち切られたことで、NASAには巨大な「在庫」が残されました。月へ行くはずだったサターンVロケットと、アポロ宇宙船です。
「これを使って、地球の周りを回る巨大な実験室を作ろう」
こうして始まったのが、アメリカ初の宇宙ステーション「スカイラブ計画」でした。
アイデアは豪快そのものでした。サターンVロケットの第3段燃料タンクを空っぽにし、そこをそのまま居住区画に改装するというものです。
直径6.6メートル、長さ15メートル。内部の容積は一般的な一軒家ほどもあり、飛行士たちは無重力の中で壁を蹴って飛び回ることができるほどの広さを持っていました。
しかし、1973年5月14日の打ち上げ直後、悪夢が襲います。
打ち上げ時の振動で、機体を守る「微小隕石防御板兼・熱シールド」が剥がれ落ちてしまったのです。さらに不運なことに、その破片が主電源である太陽電池パドルに絡まり、片方は吹き飛び、もう片方は開かなくなってしまいました。
軌道上のスカイラブは「電力不足」で、しかもシールドを失ったため太陽熱で「灼熱地獄(船内温度は50度以上)」になっていました。とても人間が住める状態ではありません。
「放棄するしかないのか?」
NASAは諦めませんでした。わずか10日後、ピート・コンラッド率いる最初のクルーが、特製の「日傘(パラソル)」を持って救出に向かいました。
彼らはドッキング後、船外活動で金色のパラソルを広げて機体を覆い、室温を下げることに成功しました。さらに、絡まった金属片を巨大なカッターで切断し、動かなくなっていた太陽電池パドルを強引に展開させました。
「直ったぞ! 電力が戻った!」
これは、人類が初めて「軌道上で故障した宇宙船を修理した」瞬間でした。この経験は後のスペースシャトルやISS(国際宇宙ステーション)での修理ミッションの基礎となりました。
修理されたスカイラブには、計3回のミッションで9人の飛行士が滞在しました。
彼らはシャワーを浴び、無重力空間でコマを回して遊び、太陽観測装置(ATM)で太陽フレアの貴重なデータを集めました。最後のミッション(スカイラブ4号)では84日間という長期滞在記録を樹立し、人間が数ヶ月間宇宙で暮らしても、適切な運動をすれば健康を維持できることを証明したのです。
2. アポロ・ソユーズ テスト計画(ASTP) —— 宇宙での握手

スカイラブ計画が終わると、いよいよアポロ宇宙船の「最後の出番」がやってきました。
しかし、その相手は月でも、アメリカのステーションでもありませんでした。長年の宿敵、ソビエト連邦の宇宙船「ソユーズ」です。
1970年代に入り、米ソの緊張緩和(デタント)が進む中、ニクソン大統領とソ連のコスイギン首相の間で、宇宙での協力プロジェクトが合意されました。
「宇宙でドッキングして、お互いの船を行き来しよう」
これは政治的なデモンストレーションであると同時に、将来どちらかの船が遭難した際に、助け合えるようにするための技術試験でもありました。
しかし、技術的な壁は政治の壁以上に高いものでした。
アメリカとソ連では、空気からして違いました。アポロは気圧を下げた「純酸素」、ソユーズは地上と同じ「窒素と酸素の混合ガス」です。そのままハッチを開ければ、気圧差で事故が起きるか、飛行士が減圧症になってしまいます。
さらに、ドッキング装置の形も「オスとメス(凸と凹)」で互換性が全くありませんでした。
両国の技術者は知恵を絞り、中間の気圧を持たせた「ドッキング・モジュール」という小部屋(エアロック)を新たに開発しました。また、どちらがオスにもメスにもなれる画期的なドッキング機構「アンドロジナス(両性具有)機構」も発明されました。
3. 「ニーハオ」ではなく「ズドラーストヴィチェ」
1975年7月15日。カザフスタンのバイコヌール宇宙基地からソユーズ19号が、その7時間半後にフロリダからアポロ18号(公式には単にアポロと呼ばれる)が打ち上げられました。
アポロに搭乗していたのは、かつてマーキュリー計画時代に「心臓の鼓動が速すぎる」として飛行を止められていたベテラン、ディーク・スレイトンを含む3名。ソユーズには、あの人類初の宇宙遊泳者アレクセイ・レオーノフが乗っていました。
7月17日、大西洋上空で2つの機体が接近しました。
「接触……捕捉完了!」
ドッキング成功の瞬間、アポロ船長のトム・スタッフォードはロシア語で、ソユーズ船長のレオーノフは英語で挨拶を交わしました。
ハッチが開かれ、両船長が手を差し伸べました。
「ハロー、ワレリー!」
「Glad to see you(会えて嬉しいよ)、トム!」
**「宇宙での握手(Handshake in Space)」**の映像は世界中に生中継されました。かつて互いの喉元にミサイルを突きつけ合い、血眼になって一番乗りを競い合った二つの大国が、宇宙というフロンティアで手を結んだのです。
彼らは互いの船を訪問し、記念のプラーク(盾)を交換し、一緒に食事をしました。チューブ入りのボルシチと、アメリカのあぶり出しチョコレートが交換されました。
このミッションは、熾烈を極めた「宇宙開発競争」の事実上の終了宣言となりました。
4. 「使い捨て」時代の終わり

アポロ・ソユーズ計画の終了後、アポロ宇宙船は太平洋に着水しました。
これをもって、マーキュリーから続いてきた「カプセル型宇宙船(使い捨て型)」の時代は一旦幕を閉じました。
ここからアメリカの有人宇宙飛行は、約6年間の長い空白期間に入ります。
NASAのエンジニアたちは、製図板の前で次なる夢を描いていました。
「一度使って捨てるロケットはもう古い。これからは、飛行機のように何度も宇宙へ往復できる船が必要だ」
次の主役は、翼を持った宇宙船。
そう、「スペースシャトル」です。
しかしその開発は、これまでのどんなロケットよりも複雑で、難航を極めることになります。
新たな翼:スペースシャトルの夜明け(1972年〜1981年)

1. 「使い捨て」から「再使用」へ —— 宇宙のトラック構想
アポロ計画が終了した1970年代中盤、NASAは厳しい現実に直面していました。 「金がない」のです。 ベトナム戦争後の不況と、国民の宇宙への関心の低下により、予算はピーク時の半分以下に削られていました。もう、サターンVのような巨大な「使い捨てロケット」を湯水のように使うことは許されません。
そこで生まれたコンセプトが、「リユーザブル(再使用可能)」な宇宙船です。 飛行機のように飛び立ち、宇宙で仕事をこなし、滑走路に着陸して、整備してまた宇宙へ行く。これを繰り返せば、宇宙への輸送コストは劇的に下がり、「毎週のように宇宙旅行ができる時代」が来ると宣伝されました。 それが「スペース・トランスポーテーション・システム(STS)」、通称スペースシャトルです。
しかし、予算削減のあおりを受けて、設計は妥協の連続でした。 当初の理想だった「完全再使用(ブースターも翼を持って戻ってくる)」は断念され、巨大な外部燃料タンクは使い捨て、補助ロケット(SRB)は海に落として回収するという、現在私たちが知る独特の形状(オービター+外部タンク+SRB)に落ち着きました。
それは、「宇宙へのトラック」としての役割を期待されました。軍事衛星も、科学衛星も、宇宙ステーションの資材も、すべてこのトラックで運ぶ。そうやって運用回数を増やしてコストを回収するという、経済理論の上に成り立つ危ういプロジェクトでもあったのです。
2. エンタープライズ号と「空飛ぶレンガ」
1976年、最初の試験機がロールアウト(お披露目)されました。 当初、この機体は「コンスティテューション(憲法)」と名付けられる予定でした。しかし、ホワイトハウスに数万通もの投書が殺到します。 「宇宙船の名前は『エンタープライズ』にするべきだ!」 SFドラマ『スタートレック』の熱狂的なファン(トレッキー)たちのロビー活動が、大統領を動かしたのです。こうして、記念すべき1号機は「エンタープライズ」と命名されました。
エンタープライズは宇宙へは行けませんが、大気圏内での滑空試験という重要な任務を背負っていました。
1977年、ジャンボジェット(B747)の背中に乗せられたエンタープライズは、上空で切り離されました。エンジンを持たないシャトルは、言うなれば「翼のついた重たいグライダー」です。パイロットたちは「空飛ぶレンガ」と揶揄しましたが、見事に滑空し、カリフォルニアの乾いた湖底に着陸してみせました。
「これで翼の性能は証明された。あとは宇宙へ行くだけだ」 しかし、本当の地獄はそこからでした。
3. 耐熱タイルの悪夢とコロンビア号
宇宙に行ける実機「コロンビア号」の建造は難航を極めました。 最大の問題は、機体を覆う3万枚以上の「耐熱タイル」でした。大気圏再突入時の1,500度以上の熱からアルミ合金の機体を守るこのタイルは、発泡スチロールのように軽く、しかし非常に脆い素材でした。 ちょっとした衝撃で割れ、接着剤が合わなければポロポロと剥がれ落ちる。技術者たちは、3万枚のタイルをまるでジグソーパズルのように手作業で貼り付ける作業に忙殺されました。
予定より2年も遅れ、予算は膨れ上がりました。メディアは「また金の無駄遣いか」と叩き始めます。 プレッシャーの中、NASAは恐ろしい決断を下します。 「無人でのテスト飛行は行わない。最初の打ち上げ(STS-1)から人間を乗せる」 これは宇宙開発史上、前例のないギャンブルでした。マーキュリーもジェミニもアポロも、必ず無人で安全性を確認してから人間を乗せていました。しかし、シャトルはシステムが複雑すぎて、人間が乗って操作しないと着陸できない設計だったのです。
この命がけの初飛行に挑む船長に選ばれたのは、ジェミニ、アポロで宇宙へ行き、月面も歩いた伝説の宇宙飛行士、ジョン・ヤング。パイロットは新人のロバート・クリッペンでした。
4. STS-1 —— 新時代の幕開け

1981年4月12日。 奇しくも、ガガーリンが人類初の宇宙飛行を行ってから、ちょうど20年後の同じ日。 ケネディ宇宙センターの発射台に、コロンビア号が鎮座していました。
「Tマイナス0。固体ロケット点火、リフトオフ!」
アポロのサターンVロケットとは違う、固体燃料ロケット特有の「バリバリ」という炸裂音とともに、コロンビア号は空へ跳ね上がりました。 その振動は予想を遥かに超えていました。コックピットの計器は激しく揺れ、ジョン・ヤングの心拍数は130を超えました。しかし、機体は無事に宇宙空間へと到達しました。
軌道上で貨物室のドアを開けた時、クリッペンは背筋が凍る光景を目にしました。エンジンノズルの近くの耐熱タイルが数枚、剥がれ落ちていたのです。 「もし、機体の底(腹)の重要な部分のタイルも剥がれていたら?」 再突入時にそこから熱が侵入し、機体は空中分解します。 彼らは地球に帰還するその瞬間まで、自分たちの機体の底がどうなっているか確認する術を持っていませんでした。
4月14日、運命の再突入。 機体はプラズマの炎に包まれました。通信が途絶えるブラックアウトの時間。 管制室の沈黙を破って、ジョン・ヤングの声が届きました。 「こちらコロンビア、すべて順調」 重要区画のタイルは、奇跡的に持ちこたえていました。
カリフォルニア州エドワーズ空軍基地の青い空の下、コロンビア号は優雅に滑走路へと滑り込みました。 停止した機体から降り立ったジョン・ヤングは、機体の周りを興奮気味に歩き回り、黒く焦げた機体の腹を指差してガッツポーズを見せました。 「なんて素晴らしい船なんだ! これなら何度でも宇宙へ行けるぞ!」
こうして、アメリカの宇宙開発は「スペースシャトルの時代」へと突入しました。それは、宇宙が「冒険」から「日常」へと変わっていく、新たな30年の始まりでした。
星への階段は続く
ナチス・ドイツのV2ロケットを接収した1945年から、スペースシャトルが初飛行した1981年までの36年間。 それは、恐怖と野望、そして純粋な探究心が複雑に絡み合った、人類史上最も熱い時代でした。
アメリカは、スプートニク・ショックという屈辱から這い上がり、アポロ計画で月面着陸という偉業を成し遂げました。そして冷戦の雪解けとともに、宇宙開発の目的は「競争」から「利用」と「協力」へとシフトしていきました。
スペースシャトル計画はその後、チャレンジャー号とコロンビア号という二度の悲劇を経験することになります。決して「安全で安価な乗り物」という当初の夢の通りにはいきませんでした。 しかし、ハッブル宇宙望遠鏡の設置や、国際宇宙ステーション(ISS)の建設など、シャトルなしでは成し遂げられなかった偉業も数多く存在します。
今、時代は再び動いています。 民間企業がロケットを飛ばし、NASAは再び月、そして火星を目指す「アルテミス計画」を進めています。 私たちが今、当たり前のようにスマホでGPSを使い、衛星放送を見ることができるのも、あの冷戦時代に命を賭けて空を見上げた人々の「小さな一歩」があったからこそなのです。
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